贈り物が苦手だ
「何を選べば良いかわからない」「懐が痛むのは最小限にしたい」等々、いつだって内向きな思考で溢れている。そんな私でも社会人になれば職場にお土産を持っていくこともあるし、新人時代にはホワイトデーに配るチョコを買い出しに行ったこともある(こういう文化は近年消滅しつつあるが…)。
こうした経験によって多少の社会性を取り戻しつつも、どうしても苦手意識が拭えなかった。
思考の転換
そんな私に思考の転換が訪れる。最近大学時代からの友人吉平君からちょっとしたお菓子をお土産に頂いた。吉平君は年に一度海外旅行へ行くのを趣味としていて、その際いつもお土産のリクエストを聞いてくれる。帰国後お土産とそのお返しをやり取りをするのが恒例行事となっていたが、逆をいえばそれ以外でお互いに贈り物をすることはなかった。今回は隣県の祖父母の家へ行ったついでにとのことらしい。完全な不意打ちをくらった私は驚きつつもいつにない嬉しさで胸がいっぱいだった。
嬉しさの正体
この嬉しさの正体はなんだろう…、帰り道に頭をひねっているとある一つの考えに行き着いた。そう、彼の中に私がいた、直接合わずとも私を想う時が確かにあった。これがどれだけ貴重なことか…、その事実が私に喜びと深い感謝の念を抱かせた。たまにお土産(プレゼント)を選ぶのが好きという人がいる。どうせ日頃目にしない物に惹かれているだけだろうとか、贈り物をする自分に酔っているだけだとかかなり穿った見方をしていた。しかし、彼ら彼女らの中には贈り物の相手が確かに存在していて、きっと物を選びながらも相手の様々な表情が浮かんでいるのだろう。
内向きから外向きへ
贈り物は基本的に相手が存在する外向きの行為だ。だが私自身贈り物を通して自分自身(センス)が評価されるかもしれないという上辺のことばかり気にしていた。それは冒頭に書いたような「何を選べば分からない」というような思考に現れている。シンプルで大切な事実を見逃していた。想う相手の存在しない内向きの思考では贈る側も贈られる側も笑顔にはなれない。
この出来事を経て贈り物に対するハードルがだいぶ下がった。今まで両親にすら大した贈り物をしなかった私が不思議なことに年末年始の帰省で何を買って帰ろうかと考え始めている。とは言いつつも、まずは自分自身に対する想い(労い)が必要だ。今年一年頑張ったご褒美に何を買おうか。年末の訪れにワクワクしている。